自衛官という職業につきまとう最大の宿命、それが「全国転勤(異動)」です。
数年に一度、短い人であれば1〜2年で日本全国の基地や駐屯地を渡り歩くことになります。
この異動に伴い、隊員とご家族を長年悩ませてきたのが「引っ越し費用」の問題です。
かつて自衛隊(および国家公務員全般)の界隈では、「異動のたびに貯金が減る」「引っ越し貧乏」という言葉が常識のように語られていました。
しかし、近年ついに制度の抜本的な改革が行われ、現在の自衛隊では「引っ越し代の実費支給」が実現し、隊員の負担は劇的に軽減されております。
本記事では、昔の「引っ越し貧乏」と言われた過酷な実態から、現在の「実費支給」に至るまでの制度の変化、そして現在引っ越しをする際に知っておくべき具体的なルールや、「実費支給でも自己負担になってしまう罠(注意点)」について解説いたします。
第一部:かつての悲劇「引っ越し貧乏」とは何だったのか?
現在の充実した制度を理解するためには、まず「昔がどれほど過酷だったか」を知る必要があります。ほんの数年前(2020年春より前)まで、自衛隊員は異動の内示が出るたびに、喜びや不安よりも先に「また何十万円も飛んでいくのか…」とため息をついておりました。
「定額支給」という旧制度の落とし穴
昔の国家公務員の赴任旅費制度(移転料)は、かかった実費を支払うのではなく、「異動する距離(旧任地から新任地までの鉄道距離など)」に応じて一律の金額が支給される『定額支給制』でした。
例えば、「500kmの異動なら、家族帯同で○万円支給」と法律でカッチリと決まっていたのです。この定額制には、極めて深刻な欠陥がありました。
- 繁忙期の価格高騰が考慮されていない:
自衛隊の大きな異動シーズンは「春(3月中旬〜4月上旬)」と「夏(8月)」です。特に春は、民間企業の転勤や大学の入学シーズンと完全に重なります。引っ越し業界では、この時期の料金が通常期の2倍、3倍に跳ね上がるのが当たり前です。しかし、国から支給される金額は「一年中一律の定額」であったため、繁忙期のバカ高い引っ越し料金には到底足りませんでした。 - 人手不足による「引っ越し難民」問題:
近年、運送業界の人手不足が深刻化し、引っ越し料金のベースそのものが高騰しました。支給額が十数万円しかないのに、業者から提示される見積もりは「50万円」「70万円」、時には「100万円以上」ということも珍しくありませんでした。
数十万円の「自腹」が当たり前の世界
結果として、国から15万円が支給されても、引っ越し代に55万円かかれば、差額の40万円は隊員の完全な自己負担(自腹)となります。
これを2〜3年おきに繰り返すのですから、まさに「引っ越し貧乏」です。日本の安全を守るために全国へ赴任しているにも関わらず、隊員の家計は火の車となり、これが深刻な社会問題、さらには国会でも取り上げられる事態へと発展いたしました。
第二部:歓喜の大改革!現在は「実費支給」へ
このような理不尽な事態を重く見た政府は、ついに重い腰を上げました。
2020年(令和2年)4月1日より、国家公務員等の旅費に関する法律に基づく運用が見直され、引っ越し費用(移転料)が「実費支給(上限額あり)」へと大転換を遂げたのです。
「実費支給」の基本的な仕組み
現在の制度では、昔のような「距離に応じた定額」ではなく、「実際に引っ越し業者に支払った金額(実費)」が支給されます。
ただし、いくらでも青天井で支払われるわけではなく、単身・家族帯同の別や、移動距離に応じた「上限額」が設定されております。とはいえ、この上限額は民間業者の繁忙期の実勢価格をしっかりと反映した現実的な金額に設定されており、多くの隊員が「自己負担ゼロ」または「わずかな負担」で引っ越しできるようになりました。
実費支給の上限額の目安(イメージ)
※上限額は人事院規則や各年度の通達、荷物の量(家族の人数)、移動距離によって細かく分類されております。下記はあくまで制度を理解するための大まかな目安・イメージとしてご覧ください。
| 移動距離(鉄道等のキロ数) | 単身赴任(目安) | 家族帯同(目安) |
|---|---|---|
| 100km未満(近距離) | 約 15万円 〜 25万円 | 約 30万円 〜 50万円 |
| 500km程度(東京〜大阪など) | 約 25万円 〜 35万円 | 約 50万円 〜 70万円 |
| 1000km以上(本州〜北海道・九州) | 約 35万円 〜 50万円 | 約 70万円 〜 100万円以上 |
※離島への異動(沖縄など)や、繁忙期(3/15〜4/15など)にあたる場合は、さらに上限額が上乗せ加算される仕組みも整備されております。これにより、春の異動でも泣き寝入りすることはほぼなくなりました。
第三部:手続きのリアル「相見積もり」という新たな戦い
自己負担が激減して歓喜に沸いた自衛隊ですが、実費をもらうためには国庫金(国民の税金)を適正に使用しているという証明が必要です。
そのため、現在引っ越しをする隊員には「厳格な相見積もり(あいみつもり)」という新たな任務が課せられております。
原則「3社以上」から見積もりを取る義務
実費支給の申請をするためには、原則として3社以上の引っ越し業者から見積書を取得し、部隊の会計・業務担当部署へ提出しなければなりません。
そして、その中で「最も安い金額(最安値)を提示した業者」を選ぶことがルールとなっております。
この「3社から見積もりを取る」という作業が、実は春の繁忙期には至難の業となります。
- 業者の確保困難:3月は引っ越し業者の電話すら繋がらないことがあります。「見積もりに来るのは2週間後です」と言われることもザラです。
- 「相見積もり」と伝えると敬遠される:業者側も商売ですから、「自衛隊の実費支給の相見積もり」と伝えた瞬間に「どうせ一番安い所しか選ばれないから、うちでは見積もりを出せません」と断られるケースが多発しております。
- 見積書式への厳しいチェック:提出する見積書には「出発地・到着地」「荷物の立米数」「基本料金とオプションの明確な切り分け」などが正確に記載されている必要があり、不備があると部隊から再提出を求められます。
そのため、現在では内示が出た瞬間、あるいは「異動になりそうだ」と察知した段階で、隊員やその配偶者は一斉に引っ越し業者へ電話をかけまくるという光景が見られます。
第四部:要注意!実費支給でも「自己負担」になる罠
さて、ここまで「実費が出るから安心!」と解説してまいりましたが、「引っ越し業者に支払った金額が全額戻ってくるわけではない」という点に最大の注意が必要です。
国から支給されるのは、あくまで「標準的な引っ越しの基本料金と、必要不可欠な附帯費用」のみです。それ以外の個人的なオプション料金は、容赦なく自己負担(自腹)となります。
支給対象になるもの(国が払ってくれる)
- 基本運賃(トラックの貸切料金など)
- 人件費(作業員の日当)
- 梱包資材費(段ボール、ガムテープ、緩衝材など)
- 高速道路料金、フェリー料金
- 通常の大型家具の搬出・搬入
支給対象外になるもの(自己負担になるオプション)
以下の費用が見積もりに含まれている場合、その金額は支給額から差し引かれます。
- エアコンの取り外し・取り付け工事費:これは生活家電の設置費用とみなされ、引っ越し費用とは認められません。長距離異動のたびに数万円の自己負担が発生する大きな痛手です。
- 特殊な物品の運搬:ピアノ、大型金庫、美術品などの特別な輸送費は対象外です。
- ペットの輸送費:犬や猫などを専門業者に運んでもらう費用も自腹です。
- マイカーの陸送費:車を業者に運んでもらう費用(車両輸送)も対象外です。そのため、多くの隊員は異動先まで数百キロ、時には千キロ以上の道のりを自分で運転して車を運びます。
- 不用品の処分費用:引っ越し業者にゴミや不要品の引き取りを依頼した場合の料金も出ません。
- お任せパック(荷造り・荷解き代行):原則として、自分で段ボールに詰める「基本プラン」が支給対象です。業者がすべて箱詰めしてくれる「お任せパック」の割増料金は自己負担となります。
したがって、完全な自己負担ゼロを目指すのであれば、エアコンの着脱は専門業者を自分で安く手配するか諦める、荷造りは徹夜してでも自分たちでやる、といった努力が今でも必要とされております。
第五部:自衛官の引っ越しをスマートに乗り切るアドバイス
最後に、これから異動を経験される自衛官や、そのご家族に向けて、引っ越しをスムーズに、かつ金銭的負担を最小限に抑えるためのアドバイスをまとめます。
① 内示の気配を感じたら「即アクション」
自衛隊の異動内示(内局や方面総監部からの発令)は、引っ越しの数週間前ということも珍しくありません。正式な内示が出る前に上官から「打診(内々示)」があった段階で、すぐに引っ越し業者へアポイントを入れましょう。繁忙期のトラック争奪戦はスピードが命です。
② 見積もりは「基本プラン」と「オプション」を明確に分ける
業者に見積もりを依頼する際、「自衛隊の実費支給の申請に使うので、エアコン着脱やマイカー輸送などのオプション費用は、基本料金とは別項目ではっきりと分けて記載してください」と強く念押ししてください。これが混ざっていると、部隊の会計審査で突き返され、余計な手間がかかります。
③ 究極の断捨離を行う
実費支給には上限額があります。荷物が多すぎてトラックのサイズが大きくなり、上限額を突破してしまえば、結局自腹を切ることになります。異動は数年に一度の「大掃除のチャンス」と割り切り、長年使っていない衣類、古い家具、読まない本などは、引っ越し前にリサイクルショップや粗大ゴミで徹底的に処分しましょう。
まとめ:隊員が任務に専念できる環境へ
「引っ越し貧乏」という理不尽な言葉は、実費支給制度の導入により、過去のものになりつつあります。
エアコンの着脱など一部の自己負担は残っているものの、かつてのように数十万円の貯金を切り崩して涙を呑むような事態は解消されました。
国の防衛という崇高な任務を全うするためには、隊員自身の生活基盤の安定と、それを支えるご家族の安心が不可欠です。
相見積もりの手続きなど多少の煩雑さはありますが、この制度を正しく理解しフル活用することで、異動に対する経済的なストレスは間違いなく軽減されます。
新しい任地での生活が、金銭的な不安のない、希望に満ちた素晴らしいものになることを心より願っております。