熊による犠牲者は過去最多
近年、日本列島を襲う自然災害の脅威に加え、クマによる人身被害が深刻化し、「獣害」が人命に関わる新たな災害リスクとして顕在化しています。特に2020年代に入り、特定の地域ではクマの出没が常態化し、猟友会の高齢化と人手不足が重なり、従来の地域社会や行政の対応能力が限界を迎えています。こうした状況を受け、国民の安全に関する「最後の砦」である自衛隊の「災害派遣」が、クマ対策への切り札として、その適用が真剣に議論されるに至りました。これは、自衛隊の活動が地震や水害といった典型的な自然災害から、「人命の危機」という公共の安全維持に関わる新たな領域へと拡大する、歴史的な転換点を意味します。
第一章:深刻化する「獣害」のリアルと地域の疲弊
1. クマ被害の「災害」化
クマの出没は、単なる野生動物との遭遇というレベルを超え、公共の安全と秩序を脅かす事態へと変貌しています。秋田県などで相次ぐ人身被害、住宅地や市街地への侵入は、住民の生活基盤と精神的な安全を根底から揺るがしています。
自衛隊法第83条に定める「災害派遣」は、「天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため特に必要があると認める場合」に適用されます。クマ被害がこの「その他の災害」に該当するかは法的な解釈を要しますが、「人命の保護」という観点から、被害が広域的かつ同時多発的に発生し、地方自治体や警察・消防だけでは対応しきれない「非代替性」「緊急性」を満たしつつあるのが現状です。これは、東日本大震災や熊本地震といった大規模災害と同様に、国民の生命を守るために国の総力が必要な局面に差し掛かっていることを示唆しています。
2. 脆弱化する地域防御ライン
クマ対策の第一線を担ってきたのは、地元の猟友会です。しかし、会員の高齢化と減少は止めようがなく、広範囲にわたる警戒、緊急時の駆け付け、捕獲檻の設置・管理といった作業の継続が極めて困難になっています。また、警察も本来の職務の傍らで警戒活動を行っていますが、クマ対策に特化した専門部隊や装備が十分でなく、特に山間部や夜間の対応能力には限界があります。
地方自治体のトップからは、「このままでは人命に関わる事態がさらに増える」「現場は疲弊しきっている」といった悲鳴に近い声が上がっており、彼らが自衛隊に期待するのは、その「圧倒的な機動力と組織力」に他なりません。

第二章:自衛隊派遣の法的枠組みと可能な活動
1. 災害派遣の枠組みと「鳥獣対策」
自衛隊は、過去にも鳥インフルエンザ発生時の殺処分支援や、北海道胆振東部地震の際に二次災害対策としてクマ対策部隊を編成するなど、間接的な鳥獣対策に協力した前例があります。しかし、クマの「駆除」を主目的とした災害派遣は、その性格上、極めて慎重な検討が必要です。
防衛省は、自治体からの派遣要請に対し、以下の三原則に照らして総合的に判断します。
- 公共性: 人命または財産を社会的に保護する必要があるか。
- 緊急性: 今すぐに自衛隊を派遣しなければ、被害が拡大する恐れがあるか。
- 非代替性: 警察、消防、地方自治体などの他の機関だけでは対処できないか。
クマ被害の深刻化は、この三原則、特に「緊急性」と「非代替性」を満たしつつあると解釈できます。
2. 自衛隊が担う「後方支援」と「安全確保」
自衛隊がクマ被害の現場で担う活動は、主に猟友会や警察の活動を支える「後方支援」と、住民の「安全確保」に特化されることになります。直接的なクマの駆除活動は、法的・運用上の課題が多いことから後方支援がメインとなると予想されます。
【想定される自衛隊の活動内容】
| 活動区分 | 具体的な支援内容 | 自衛隊の能力活用 |
| 情報収集・監視 | ドローン、ヘリコプター、暗視装置を用いたクマの移動経路・生息地の偵察、監視拠点構築。 | 高度な偵察・情報通信能力。 |
| 輸送支援 | ハンター、警察官、捕獲檻、資材などの迅速な輸送(トラック、高機動車、ヘリ)。 | 大規模な輸送能力、不整地走行能力。 |
| 住民避難・誘導 | 警戒区域の設定、住民の避難誘導、広報活動、避難所運営の支援。 | 組織的な統制力、多数の隊員によるマンパワー。 |
| 通信支援 | 現場と本部、関係機関との通信ネットワークの確保・強化。 | 強固な無線・衛星通信インフラ。 |
| 排除・封じ込め | 隊員によるパトロール、非殺傷装備(音響、閃光など)を用いた市街地からの追い払い。 | 組織的な警戒体制。 |
3. 武器使用と「文民統制」の原則
最も大きな壁となるのが、武器(銃器)の使用に関する法的制約です。自衛官は、職務遂行上や自己防衛のために必要最小限の武器使用が認められていますが、クマを積極的に「駆除」する目的での使用は、現行法では極めて困難です。
仮に自衛隊がクマを撃退・駆除する役割を担う場合、それは治安出動に近い性格を帯び、厳格な手続きと「文民統制(シビリアン・コントロール)」の原則に基づき、内閣総理大臣の命令が必要となる可能性があります。自衛隊の部隊がクマを直接射殺する事態は、人命救助とは異なる「警察活動」に近い権力の行使となるため、法の明確化なしには実現は難しいのが実情です。
実際に災害派遣となった場合は、自衛官が熊を駆除することはないでしょう!
第三章:課題克服と今後の展望
1. 法的課題の克服と制度設計
自衛隊が今後、クマ被害に継続的かつ効果的に対応するためには、以下の法的・制度的な課題をクリアする必要があります。
- 根拠法の整備: クマ被害を「災害」として明確に定義するか、あるいは「有害鳥獣対策特措法」のような新たな法制度を設け、自衛隊の関与を法的に位置づけること。
- 指揮系統の明確化: 災害派遣発令までのプロセスを迅速化するとともに、現場での指揮権を誰が持つのか(知事、防衛大臣の指定者、警察など)を明確に整理する必要がある。
- 武器使用基準の具体化: 隊員が人命を守るためにクマに対して火器を使用できる具体的な状況と手順を法的に明確に定めること。これなくしては、現場の隊員は安全確保のために十分な行動をとることができません。
2. 自治体・警察・自衛隊の連携強化
自衛隊の派遣は、あくまで**「非代替性」**が要件です。したがって、自衛隊への依存度を高めるだけでなく、地方自治体、警察、猟友会といった既存の体制が、それぞれ役割を強化することが不可欠です。
- 警察の対応強化: 麻酔銃や非殺傷性装備の充実、クマ対策の専門チームの設置など。
- 猟友会への支援: 若手ハンターの育成、報酬の引き上げ、装備の補助など、地域防御の担い手への抜本的な支援強化。
- リスクコミュニケーション: 住民に対する適切な情報提供と、クマとの遭遇を避けるための教育・啓発活動の強化。
3. 「命」を守るための総合的な国家戦略
クマ被害への自衛隊派遣の議論は、日本が直面する複合的な安全保障上の脅威を象徴しています。大規模災害、パンデミック、そして今回の獣害。自衛隊は、防衛任務に加え、国民の生命と安全を守る「命のインフラ」としての役割がますます重要になっています。
クマの脅威は、特定の季節や地域の問題ではなくなりつつあります。自衛隊がその能力を最大限に発揮し、人命を守るためには、単なる事態への対応ではなく、法、組織、装備の面で抜本的な見直しを含む、国家としての総合的な安全戦略が必要とされています。クマ対策への自衛隊の関与は、日本の安全保障政策における、新たな「平時」と「有事」の境界線を定める、極めて重要な試金石となるでしょう。